2010/11/09(火)初めてのラピッドカメラ
当時としては珍しく、参加した仲間は皆一眼レフを持っていました。コンパクトカメラは、「酸化セリウム」の先生くらいです。オリンパス・ペンDでした。そういえば、一人だけマミヤプレスなんて変わり者もいましたね。
FUJIFILM が一枚噛んでいて、カメラの貸し出しをやっていました。「おじちゃんがいいカメラを貸してあげるからね」とばかりに、箱から取り出してきたのがラピッドカメラでした。フィルムも1本オマケしてくれるそうです。
カメラはどう見ても撮影会に使うようなシロモノではなさそうです。フィルムが貰えるならと、大勢集まってきたものの、専用マガジンだから使えません。
皆ガッカリして、誰一人として借りる者はいませんでした。首から一眼レフを下げた学生を恨めしそうな目でみながら、「このクソガキどもめ!」といった表情で、デモ機を片づけていました。気の毒に、無駄足でしたね。
このときの「おじちゃん」が、プロ部門担当のT氏だったと思い出すことになるのは、ずいぶん後になってのことです。「あのときラピッドを宣伝してたでしょ」と聞いたら、「そんなこともありましたね」とバツが悪そうでした。メーカーの人にとっては、苦い思い出です。
当時のメーカーは、売れ行き不振のラピッドを宣伝するのに必死だったんだと思います。早々に製造打ち切りになるとわかっていたら、話の種で借りとけばよかったと、いまでは後悔しています。
「おじちゃん」の顔も立ったことだし・・・
2010/11/08(月)短命だったラピッドフィルム
1964 年に当時の西ドイツのアグファゲバルト社が開発した方式です。35mm フィルムを使用していたので、新規格というよりは、新方式といったほうが正確かもしれません。
マガジンに装填された 35mm フィルムをもう一方の空のマガジンに送る方式です。巻き戻しが要らないのが特徴でした。新たにフィルムを装填するときは、空になって残ったマガジンを送り出し先に使います。
この方式は、コダック社が 1963 年にフォトキナで発表したインスタマチック(126判)に対抗して出されました。35mm フィルムが巻き戻しを必要とするのに対し、インスタマチックは、送りっ放しで済むカートリッジ式を採用していました。
どちらも、パトローネ式 35mm の最大の難点は、巻き戻しにあるという発想だったようです。
ラピッドフィルムは短命でした。ラピッド陣営だった FUJIFILM は、その理由を次のように挙げています。発売時期が 40 年不況と重なったこと、カメラのデザイン・構造がいまひとつ魅力に欠けていたこと、カメラ内部のフィルムの平面性に問題があったことです。(「富士フイルムのあゆみ」より)
そのほかに、24x36mm のライカ判だと 12 枚しか撮影できなかったことが挙げられます。撮影済みのフィルムを収納するマガジンには巻取り用の駆動軸がなく、ギア式のスプロケットで送り込む方式を採用したために、フィルム長に制限がありました。
フィルム自体は 135 規格なので、専用マガジンが2個あれば、いまでも撮影可能です。暗室かダークバッグで、約60cm に切ったフィルムを詰めて使います。
フィルム感度はマガジンのノッチで判断する仕組みになっていたようで、現在の高感度フィルムを使う場合は工夫が必要かも・・・
2010/11/07(日)短命だったHD DVD
記録メディアは、ビデオの VHS とベータのように、異なる方式が競い合うケースが目立ちます。競争に負けて姿を消す方式を選んだら、後で後悔することになります。
ブルーレイディスクと HD DVD は、ブルーレイの勝ちでした。実質的に東芝1社だけの状態では、シェアを獲得できなかったようです。
VHS/ ベータ戦争のときの教訓から、記録メディアの勝ち負けを握っているのは、松下と日立だという人がいます。この2社が共に採用した方式が勝ち組になるという説です。
日本国内での競争は確かにそうでした。現在では市場がグローバル化しているので、この図式は単純には当てはまらないないと思います。
ブルーレイの勝利を決定づけたのは、ワーナーブラザースの BD 一本化だったというのが定説です。ハードではなく、ソフトを供給する側の影響力を強く印象づけました。この傾向は、これからも続くと予想されます。
ベータで手痛い敗北を喫したソニーは、プレステ3がブルーレイ陣営の追い風となり、今回は勝ち組です。ここでも BD-ROM のゲームソフトが大きな役割を果たしました。
HD DVD-R のメディアは、まだ入手可能のようです。うちには、HD DVD はもちろん、ベータも L カセットもありません。貧乏くじを引かずに済みましたが、VHS や 8mm テープ、カセットテープは、いずれ姿を消すでしょうね。
それと銀塩フィルムも・・・