2008/07/19(土)創業家の力
関西人から「西本の機械を使ってるんだって?」と言われて、「えっ?西本?」と思った写真屋さんは多いのではないでしょうか。
和歌山で西本カメラやノーリツ鋼機というと、知らないひとは余所者といわれるくらい著名です。松山のZボイラみたいですね。
初めてノーリツ鋼機の工場を訪ねたときは、場所がわからなくて、通りがかりのパトカーに道を聞きました。「後についてきてください」とのこと。分かれ道まで先導してくれて、スピーカーで「このまままっすぐに進んでください」と案内してくれました。
工場に着いてから「パトカーの先導で・・」と話すと、応接してくれた部長が「オヤジ(西本社長)は公安委員長をやってたからなぁ」とまんざらでもない様子。
でも、工場近くのネズミ捕りでは、従業員がよく捕まるみたいで、バツが悪いのか「オヤジの顔に泥を塗るな!」と、よく注意するそうです。
西本カメラ本店の3階の現像室には、ノーリツ鋼機製のプリンターが何台も並んでいて、操作しているひとはノーリツ鋼機のユニホームを着ていました。当時は一心同体です。
「和歌山市内にFUJIのフロンティアがとうとう2台も入った」とか言ってました。
えっ?たったの2台?・・天下の富士フイルムも和歌山では悪戦苦闘だったようです。
2008/07/18(金)ノーリツ鋼機の行方
ノーリツ鋼機は和歌山にある西本カメラの創業者=西本貫一氏が興した会社で、銀塩カラープリンターの世界的なトップメーカーです。
提携先のコダックをはじめ、FUJIFILMフロンティアのエンジンもいまでは同社製のようで、世界の需要を握っています。
このところ業績の低迷と株価の下落が続き、創業家と外資系投資家の間では、危機感が強まっていたようです。佐谷社長が降板し、創業家が推す茶山氏が新社長に就任することになりました。
佐谷氏とは、ドイツのフォトキナと和歌山の本社でお会いしたくらいで、とくに親交があったわけではありませんが、引責の形で退任されたのはお気の毒だと思います。
経営手腕というよりも写真産業自体の衰退が要因でしょう。
同社の工場は、何度か中を見学させてもらいました。立派な設備です。
従業員のかたは礼儀正しいですね。行く先々で帽子をとって深々とお辞儀をしてくれました。仕事の手を止めさせて申し訳ない気持ちです。大抵は会社の偉いさんと一緒だったけど、だから・・というわけではないようです。
和歌山には精密加工ができる下請けが少ないのか、創業者の西貫さんが機械好きなのか、見たこともないような巨大なミルマシンが並んでました。音がうるさいので、無人の夜間しか動かしていないそうです。
多分、その気になれば飛行機以外のものは何でも作れそうな設備です。
工場の柱に標語が掛けてありました。
「汗を出す者は汗を出せ。知恵を出す者は知恵を出せ。汗も知恵も出さない者は黙って去れ!」
この標語、工場の中ではなく、役員室に掛けておいたほうがよさそうですね。
2008/07/17(木)オリエンタルカラー
とかく他社の批判をしがちな感材メーカーのひとも、オリエンタルの悪口をいうことは少なかったですね。天に吐いた唾が自分に降りかかります。
写真店で、初期のオリエンタルの自家処理システムを使っていた・・というところは、相当古い店ですね。現在の自動現像機と違って、ハンガーに吊るしたフィルムを現像タンクに沈める方式です。
印画紙は、ステンレスの籠に並べて現像タンクに沈めていました。(もちろん暗室で!)
ノーリツ鋼機の前身=西本カメラの社長が、モノクロ印画紙の水洗器を開発して、全国の写真屋さんに売っていた時代から少し後の話だから、もう昔話だけどね。
デジタル化の波を受けて会社を縮小する前は、フジとコダックのカラーペーパーを供給していました。裏にメーカー銘の入ってない「無印」のペーパーです。
感材メーカーの純正ペーパーよりも安かったので、オリエンタルから材料を買っていたお店は結構あったようです。知り合いの老舗の写真屋さんには、「オリエンタルカラー」の大きな看板が揚げてありました。
そのお店の前を小学生の一団が、「あっ間違ってる!オリエンタルカラーだって」と大きな声で言いながら通り過ぎていきました。
「オリエンタルカレー」が正しい!という言い分だったようです。店のご主人は、苦笑いしてました。
すでになくなったブランドですが、いま結婚式を挙げているカップルの親の世代には、結婚式でお世話になったかたがおいでになります。
当時の写真の裏を見て、メーカー銘が入っていなかったら、オリエンタルカラーかもしれませんね。