2010/11/12(金)「アレ・ブレ・ピンポケ」写真

 1960 年代後半は、70 年安保で学生運動の嵐が吹き荒れた時代でした。このころ発表された森山大道氏の「アレ・ブレ・ピンボケ」写真は、時代の風潮と符合して若者達の支持を得ました。
 それまで微粒子でピントのシャープな写真が手本だった固定観念への挑戦と受けとめられたようです。コンテスタシオン(異議申し立て)ですね。

 当時、高校の写真部では、この新しい映像表現に賛否両論の論争が巻き起こりました。暗室技術に長けた先輩は、「あんなのは邪道だ」と批判的でした。一方、別の先輩は、「これこそが写真表現の革命」と絶賛です。
 先輩達の論争に刺激されて、部室では盛んに写真論議が交わされました。写真とはなんぞや・・・

 新しい文化や表現方法が登場したときには、必ず賛否両論の意見が沸きあがります。いまでは誰も批判の対象にしないビートルズの音楽でも、当時は揶揄する声が上がりました。「あんなのが来日するなんて、もう日本の文化をバカにして!」と、テレビ番組でぶち上げた「長老」もいましたね。

 ピカソのキュービズムも理解し辛いアートです。見えないはずの別の視点から見た姿が、1枚の平面の中に描かれている奇抜な表現に戸惑いすら覚えます。
 ピカソのデッサンを見たことのあるひとは、この画家の対象に対する洞察力の深さと、的確な表現力を知っています。キュービズムが単に奇をてらった試みでないことは、見る人が見ればわかるはずです。

 森山大道氏のアレ・ブレ・ピンボケ写真も、徹底的に微粒子現像を追及したアシスタント時代に、その下地が形成されたのだと思います。
 まともな現像ができず、時代の流行に流されただけの先輩は、そのうち写真の世界から遠ざかっていきました。本物かどうかの違いは、基礎があるかないか?ですね。

2010/11/11(木)巨匠とデジタル写真

 先月まで、細江英公氏の「人間ロダン展」が、リコーフォトギャラリーで開かれていました。撮影したカメラは、なんとリコーの GR DIGITAL です。写壇の巨匠もデジタル写真を活用しています。

 ずいぶん前に氏が、デジタル技術をいかにうまく生かすか?という話をしているのをどこかの雑誌で見た記憶があります。「アナログかデジタルか」なんて論争は、アートの本質には関係ない、技法や手段の話なんでしょう。
 ロダンの作品を「彫刻の写真」ではなく、「人間ロダン」として表現したかったとか・・・
 尊敬するロダンへの意思表示をするのに選んだのが、自分の手足となるまで馴染んだコンデジだったということです。

 プリントには和紙を使ったそうです。銀塩素材ではできない、デジタルならではの表現です。「酸化セリウム」の先生の御曹司もプリントする紙に前加工をしていました。デジタル写真の面白さは、撮影手段よりも出力手段にあるような気がします。

 こうした新しい技法は、やはり若い世代の自由奔放な発想が牽引役です。氏の周りには、若手の写真家やアーティストがいっぱいいるのでしょう。
 デジタル時代になっても活躍している写真家の一人に、森山大道氏がいます。彼は 1960 年代前半に、短期間ですが細江氏のアシスタントを勤めていました。たぶん暗室処理でしょうね。

 その後、森山大道氏は「アレ・ブレ・ピンボケ」のセンセーショナルな写真を発表し、論争を巻き起こします。それまで常識とされてきた、微粒子でピントのシャープな写真が手本という固定観念への挑戦でした。
 同時代の写真家たちに与えた影響は、多大だったと思います。

2010/11/10(水)全日本学生写真連盟

 ラピッドカメラに初めてお目にかかる機会となった撮影会は、中部学生写真連盟の主催でした。聞いた話では、高校生以上が対象だそうです。参加したときはまだ中学生だったかもしれません。高校の先輩に誘われてついて行きました。

 学生写真連盟は、中部地区からスタートしたそうです。愛知県出身の写真家、東松照明氏の肝いりで 1951 年に中部学生写真連盟が発足。翌年には、全日本学生写真連盟が結成されました。氏は当時、愛知大学の学生でした。
 その後どういう経過をたどったか、詳しいことは知りません。Wikipedia の「東松照明」の項目を見ても、この件については一切記述がありませんでした。

 学生という限られた世代の組織だから、音頭をとる人が卒業してしまえば活動は沈滞します。60 年安保から 70 年安保のころは、学生が世の中を動かす力がまだ残っていた時代でした。次から次と音頭をとる学生が現われました。
 今でも各地に学生写真連盟という名で活動しているクラブがあるようですが、全国的な統一組織はないみたいです。

 70 年代になって、東松照明氏は沖縄に居を移します。沖縄返還のころだったと思います。すぐ後に「太陽の鉛筆」という写真集を出しています。
 カメラ雑誌の記事で、沖縄での暮らしを何度か目にしました。新聞を頼んだのに、ちっとも届かないので問い合わせたら、墓場を通るのが怖くて配達の子が嫌がっている・・なんて話が載っていました。

 氏は もう 80 歳です。同時代の奈良原一高・細江英公氏も 80 に手が届きます。写真のデジタル化を当時の「若手写真家」は、どう見ているのでしょうか?
OK キャンセル 確認 その他