2008/11/06(木)祭りの写真
なぜ祭りの写真を批評の対象にしないのかは、聞きそびれてしまいましたが、何となくわかる気がします。
お弟子さんのなかには、ネイチャーフォトが好きなひともいます。
鳥を写した写真が置いてあったので、「お客さんの写真ですか?」と尋ねたところ、「このひとは鳥一筋だから困ったもんだ」との返事。熱心なお弟子さんだけど、鳥の写真では批評のしようがないと、こぼしてました。
被写体そのものが写真のすべて・・というのが嫌なんですね。作者の意図とか切り口みたいなものがないと、作品としての価値がないということのようです。
祭りの写真は、演じている被写体が主人公だし、ただの記録写真でしかないという捉え方です。
土門拳を師と仰いでいたから、写真がリアリズムであることを否定しているわけではなさそうです。シャッターを押すことと、自分がそれに介在することの意味に拘りを持っているんでしょうね。
この先生に結婚式の写真を見せて、「どうですか?」と批評を聞くのは、やめといたほうがよさそうです。結婚式も祭りも似たようなイベントだから、ただの記録写真としてしか見てもらえません。
結婚式で自分独自の切り口か・・・
つまらないことを考えないで、花嫁が喜びそうなショットをたくさん撮ったほうが、世の中平和でうまく収まりそうです。
2008/11/05(水)富士山の写真
アマチュア写真家の指導には熱心でしたが、富士山の写真は批評の対象にしないという固い意思がありました。
なぜ見ないのかを直接聞いたことがあります。「富士山の写真は雲の変化を捉えただけだ。題名を『雲』にしたほうがマシだ!」との返事。なるほどね。
確かにアマチュアが捉えた富士山の写真には、そういうのが多い気もします。
でも、北斎や広重の浮世絵に描かれている富士山は、駄作ではなくてアートだと思いますが、写真での表現はできないということでしょうか?
浮世絵の富士山を見ていて、感じたことがあります。
富士山を撮るには、正面からガップリ取り組むか、うーんと遠くに離してアクセントで扱うかのどちらかではないか?ということです。
富士山は日本人なら誰でも脳裏に焼きついている山です。大女優と一緒で、被写体そのものが主役になります。誰が撮ったかは二の次で、自己表現の対象としては難しい被写体です。
被写体に負けないだけの観察力と表現力が求められます。
富士山は、画面の隅にチラリと写っているだけでも、強いインパクトがあります。強烈なスパイスみたいなもんですね。小さく扱うことで、スパイスの効き具合を調節するのもテクニックのひとつです。
安藤広重の東海道五十三次には、このやりかたで描かれた場面がたくさん登場します。葛飾北斎も荒海の向こうに小さく富士山を配して、うまくスパイスを効かせています。
このテクニックは結婚式の写真でも使えそうです。
花嫁のアップもいいけど、たまには小さく扱って、スパイスが旨味に効いた写真を撮りたいですね。
2008/11/04(火)ベス単の写真
記憶に残るのは、ベス単のレンズを使ったソフトフォーカスの写真を広めたことです。ベス単とは、単玉レンズのついたベスト判のカメラです。
ベスト判は、ブローニーよりもひと回り小さいサイズのロールフィルムで、当時でも入手は不可能でした。カメラ(もちろん中古)からレンズだけ外して、一眼レフボディーに装着することで、豊富な種類の135サイズフィルムが利用できます。
単玉のレンズは球面収差が強烈で、絞りが開放だとピントが甘い写真しか撮れません。そこに目をつけたわけです。
「ベス単クラブ」というアマチュア写真家の会を作って、ソフトフォーカスの写真を奨励していました。「ベス単でなければダメ!」という会則です。
先生自らベス単レンズを改造して、お弟子さんに売っていました。
中間リングやフィルターの枠を使って改造します。フィルターの枠だけを何十個も注文したので、メーカーは怪訝な顔です。なかなか問屋からモノが届きません。顔見知りの営業マンに事情を説明してやると、「臼井先生じゃあしょうがないなぁ」とすぐに手配してくれました。
皆がベス単カメラを買い求めたので、中古市場の価格が急騰しました。知り合いの中古屋は、「臼井先生が買い占めるから・・」とうれしい悲鳴です。
なかには知らずに複玉のベスト判カメラを買ったひともいたようです。単玉でなければ、絞りを開放にしてもソフトフォーカスにはなりません。球面収差が補正されているからです。
結婚式の写真でベス単レンズを使うことはないでしょうね。ソフトフォーカスの写真を撮りたいのなら、ソフトフィルターを使えばいいことです。タバコのセロファンでも代用できるし・・・
どうしてもベス単のボケ味がいい!というなら、球面収差を利用したソフトフォーカスレンズがPENTAXから出ています。臼井先生の影響ですかね。