2008/05/12(月)カールツァイスの話3
当時はヤシカがカメラを生産し、レンズの販売権を持っていたので、多分、富岡光学が組み立てを担当したと思います。
スペックを70-210mm F3.5から、80-200mm F4に変更したこともあり、生産量は大幅に向上しました。価格も安くなりましたね。
検査は、ツァイスの技師が日本に駐在して行なったので、検査票も付いていました。それ以降、CONTAX用のレンズは、順次日本で生産されるようになりました。
ツァイスとしては、渋々ライセンス生産を認めた形ですが、その後ズームレンズが主流になったので、結果的に時代の流れにとり残されずに済んだわけです。
初期のバリオゾナーの70-210mm F3.5というスペックは、立派なものでした。きっちり3倍ズームでコンスタントFナンバーです。しかも、マクロ比率は1:2でした。
当時、ズームレンズ普及の牽引役だったタムロンの技術者が、「これじゃあ生産量が上がらないのも無理ないね」なんて妙に感心してましたね。ちなみに、タムロンが対抗して出したSP70-210mm[52A]は、F値変動のF3.5-4で、マクロ比率は1:2でした。
わずかのスペック差が、生産コストや生産量に大きく影響します。
コンピュータの発達で計算速度が飛躍的に向上したことが、ズームレンズの高性能化につながりました。手計算でやったら数万年かかるレンズ設計が、数ヶ月に短縮できるからです。非球面レンズや特殊低分散ガラスの利用は、コンピュータ抜きでは考えられません。
実用レベルの高画質と低価格の実現で、ズームレンズ全盛時代を迎えたわけです。